徳川・毛利に次ぐ百二十万石で封入
上杉景勝は、有名な上杉謙信の養子にあたり、上杉の家督を継いだ人物です。豊臣秀吉の五大老の一人でしたが、秀吉亡き後、徳川家康と対立。後に徳川軍門に下るものの、会津百二十万石から出羽米沢三十万石へと減封されました。
年代(年号)
事 柄
1598
(慶長3年)
宇都宮に十八万石で転封された蒲生秀行に代わって、上杉景勝が三月に越後から入りました。景勝は会津、仙道、長井(米沢)、庄内、佐渡など百二十万石の地を与えられました。
この年に秀吉が亡くなると、勢力を強めた徳川家康と対立を深めていきます。
1600
(慶長5年)
2月
反徳川として景勝は石田三成と結んで各地の城を修築したばかりでなく、神指ヶ原に新たな城の造築をはじめました。
6月
家康は景勝を討つため会津出征に出発。しかし小山に到着したとき石田三成の挙兵を聞いて反転西上します。これが関ヶ原開戦につながります。
9月
家康は関ヶ原の戦いに大勝。
1601
(慶長6年)
9月に上杉景勝は米沢に30万石で転封
■120万石での入封
蒲生秀行が宇都宮へ去った後、慶長3年(1598)越後国(新潟県)から上杉景勝が120万石で入封しました。
■上杉謙信の養子・景勝
景勝は川中島の戦いで有名な上杉謙信の養子で、家督相続の争いに勝って上杉家をついだ人です。景勝の領地は旧蒲生領に出羽国庄内3郡を(山形県)を加え、豊臣政権下にあって徳川240万、石毛利120万5千石に次ぐ天下第3の大名であり、5大老の一人となりました。また、景勝の寵臣直江山城守兼続は豊臣秀吉に愛され、景勝の領地の内30万石(山形県)の大領地を与えられ、石田三成と親交を深めました。
■豊臣秀吉の死と徳川との対立
秀吉が慶長3年に亡くなると、5大老の一人である徳川家康はその力を強め、石田三成をはじめとする豊臣家家臣団との対立を深めました。この時景勝は三成との交流から反家康に傾斜していきます。
■まぼろしの神指城
景勝は、鶴ヶ城が山に近く、拡張にも不便であったので、家康との対決に備えて神指の地に新城を築くことにしました。慶長5年(1600)にはじめられた神指城の築城は、8万とも12万とも言われる人夫を集めましたが、景勝と家康の対立が激しくなり、ついに家康が会津攻めを決断したので中止されました。その跡は会津若松市神指町に今も残されています。
■関ヶ原・開戦
家康の軍が京都を出たと知った景勝は、北の伊達政宗や最上義光、南の家康に備えるために国境の警備に全力をあげました。そして、景勝を討つために北上した家康の背後を襲い、南北から挟み撃ちにしようと三成は反家康の兵をあげ、関ヶ原の戦いの幕があけました。このため、家康は下野国小山(栃木県)から江戸へ引き返し、西へと向かいました。
こうして、慶長5年9月15日、家康は天下分け目の関ヶ原合戦に臨み、三成以下の西軍に大勝しました。
■出羽国米沢へ
この結果伊達氏、最上氏、堀氏などの近隣諸侯を相手に奮戦していた景勝も家康の軍門にくだり、慶長6年(1601)に会津120万石から出羽国米沢30万石へと減封されることとなりました。
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