葦名末期の内紛に乗じた独眼竜政宗の会津支配
内紛のあった葦名氏を、奥州の覇権を狙っていた米沢の伊達政宗が破り、会津は伊達の支配下に入りました。しかし時の権力者・豊臣秀吉の命令で、わずか一年余の支配で伊達政宗は会津の地を手放す事になります。
年代(年号)
事 柄
1589
(天正17年)
葦名義弘と伊達政宗は摺上原で最後の決戦をしました。敗れた義弘は黒川城を去って常陸佐竹氏にかえりました。文治5年以来約四百年の長い間会津に栄えた名族葦名氏も終止符を打つことになりました。
1590
(永仁2年)
豊臣秀吉に従い、伊達政宗は陸奥国岩手山城(宮城県)へと移りました。
■葦名と伊達
葦名氏と並ぶ有力な戦国大名だった伊達政宗が葦名氏の内紛を見逃すはずはありません。盛氏が亡くなったあと、仙道(福島県中通り)の支配権を着々と固めていた政宗は、葦名氏に背いた猪苗代盛国の内応によって、天正17年(1589)猪苗代城に入りました。そのころ葦名義広は、父佐竹義重とともに伊達領を攻めるため須賀川へ出陣していましたが、政宗が猪苗代へ入城したと知らされ、黒川へとって返し、直ちに猪苗代方面へ軍を向けました。この時攻める伊達氏の兵力は内応した猪苗代勢を加え2万3千、守る葦名氏の兵力は1万6千と言われています。
■摺上原での対陣
今から、四百年余り前、天正17年6月5日に、総勢4万にも及ぶ両軍は磐梯山麓の摺上原に対陣し、午前6時に戦いの火蓋が切られました。葦名の先陣富田将監は奮戦して伊達勢を切り崩しましたが、足並みのそろわない葦名勢はこの好機を生かせず、午後になって西風が東風に向きを変えた頃から戦況は急転し葦名・伊達の命運をかけた決戦は伊達勢の一方的な勝利となりました。
敗れた義広はわずかばかりの兵とともに黒川へ、そして常陸へと逃れ、戦国の雄葦名氏は、4世紀にも及ぶ会津支配に終わりを告げたのです。義広が江戸初期、佐竹氏の秋田移封にともなって角館へ移り、桜で有名な美しい城下町を築いたことはあまり知られていません。
■伊達政宗の黒川城入城
葦名氏を滅ぼした伊達政宗は6月11日の雨の中、黒川城へ入城し、その時伊達政宗がうたったのが「さんさ時雨」と伝えられています。政宗は、現在の山形県・宮城県・福島県の三県にまたがる広大な領地を得て奥州の覇権を確立し、さらに関東への進出をねらいました。
■一年余りの支配
しかしながら、すでに豊臣秀吉の政権が確立され天正18年(1590)の小田原攻めで全国の支配を決定的にしたため、政宗は秀吉に従い、会津の地を手放して陸奥国岩手山(宮城県)へとうつり、政宗の会津支配はわずか、1年余りで終わりました。
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