慶応4年(1868)正月、朝廷から幕府を うつ命令がでて 新政府軍は ぞくぞくと東にすすみました。そして、4月には ついに将軍、徳川慶喜は江戸城をあけわたしました。
300年もつづいた長い幕府政治は終わりをつげ、、古いものは くずれさって 新しい時代へと世の中は 大きく変わろうとしていました。
その後、悲惨な戦を避けようとする、会津藩をはじめ、東北各藩の連合の願いも聞き入れられず、やがて新政府軍は、会津にむかって、四方からとりかこむようにして、大軍をすすめてきました。
会津が幕府方の大きな勢力を持つ藩だから、どうしても攻めほろぼさなければならないというのです。
ついに、会津藩もこの新政府軍の侵入を防ぐため、決然とたちあがることになりました。
風をまきおこし、砂ぼこりをあげて、矢のように早馬が町の中をかけぬけて城内にはいってゆきます。四方の国境に新政府軍が近づいた という知らせです。こうして、若松城下は戦争の不安につつまれ、戦いの準備に一層さわがしくなっていきました。
会津藩では、以前から天下の形勢によって戦争がおこる ことを考えていました。ですから、鳥羽伏見の戦いの反省から、慶応4年3月の軍制の改革にとりかかっていました。いままでの古いやり方を新しいフランス式のものに なおしたのです。
それには、あくまで戦力に重きをおいて、次のように年齢によって組織をあらためたばかりでなく、武器や弾薬の買い入れにも力をそそぎました。
1、玄武隊(げんぶたい):50歳以上
1、青龍隊(せいりゅうたい):49歳以下、36歳まで
1、朱雀隊(すざくたい):35歳以下、18歳まで
1、白虎隊(びゃっこたい):17歳以下15歳まで※のちに16歳まで
他に、幼少組:15歳、14歳)
このうち、もっとも強い 朱雀隊を主力として第1線にくりだし、それに続く、青龍隊に国境をまもらせ、玄武隊、白虎隊、幼少隊は その後備えにとっておく方針でした。
5月になりますと、攻めてくると新政府軍にたいして、どのように防いだらよいか、お城のなかでは毎日のように、評議(相談する会議)が重ねられました。けれども全部を合わせても15000~16000人しかいない、兵では思うようには いきませんでした。
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