年代(年号) |
事 柄 |
1627
(寛永4年) |
1月に蒲生忠郷が亡くなりました。子がなかったので、弟忠知が四国の伊予松山に転じ、五月に松山から加藤嘉明が会津四郡、安積、岩瀬二郡四十万石で若松に転封してきました。 |
1631
(寛永8年) |
九月に加藤嘉明が亡くなり、嫡子明成があとを継ぎました。 |
1632
(寛永9年) |
明成はこの年から、滝沢峠の修理をはじめ、道に石を敷き八万人の人夫を使い寛永十一年に完成させました。 |
1639
(寛永16年) |
天守閣を五層にし、西出丸、北出丸を増築しました。(現在の鶴ヶ城の姿が整う)
重臣・堀主水兄弟が明成に無断で会津を退いた事件がおきました。 |
1643
(寛永20年) |
堀主水兄弟の件が元で五月に明成は四十万石の封士を召し上げられました。 |