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国指定名勝松平氏庭園
日本最後の内戦・戊辰戦争

黒船が現れ世間が揺れる幕末。
会津が全国に知られているのは、この時期の戊辰戦争が大きな要因です。

戊辰戦争は1868年・鳥羽伏見の戦いから始まった日本最後の内戦で、旧幕府軍と新政府軍が激しく戦いました。会津は旧幕府軍として最後まで抵抗しましたが、最後には降伏することになります。
悲劇で知られる白虎隊や新選組など、多くの英雄が活躍し、その命を落としたのもこの戦争です。

年代(年号)
事 柄
1852
(嘉永五年)
八代容敬が亡くなり、養子容保が九代藩主となりました。
1862
(文久二年)
八月に容保は京都守護職を命じられ、家老西郷頼母、田中土佐も止めましたが、どうすることも出来ませんでした。
十二月に容保は江戸を出発し、下旬京都について黒谷に陣を構えました。
1866
(慶応二年)
七月に京都で蛤御門の戦があり、間もなく征長の戦いがはじまりました。十二月十五日孝明天皇がなくなりました。
1868
(慶応4年)
戊辰戦争
■1月
 鳥羽伏見の戦いがおこりました。
■2月
 容保は会津に帰って謹慎しました。
■4月
 奥羽越の諸藩と同盟ができ、会津藩もいよいよ戦うことを決意し、それぞれ軍の配備をしました。戦争は四月中旬からは東方は中通方面、西方は越後方面、南方は日光方面に起こりました。
■8月
 戸ノ口原の戦いとなって、西軍はついに城下に侵入しました。白虎隊の自刃や、西郷一族をはじめ多くの人々が悲運に倒れました。
■9月22日 
 篭城1ヶ月、ついに鶴ヶ城は開城しました。この日容保父子は三千の家臣に別れを告げ、妙国寺で謹慎しました。

国指定名勝松平氏庭園
■藩政改革後の会津
 名家老 田中玄宰の藩政改革によって実力を蓄えた会津藩は、幕末の動乱期において数々の幕命を受けることになりなす。その最初は北辺警備で、ロシア侵攻に備えるため樺太、蝦夷地に出兵し、ついで江戸湾の警備にあたり、黒船に備えて房総半島、三浦半島、そして品川沖に砲台を築きました。そして戊辰の悲劇を生んだ京都守護職です。

■九代藩主の容保

 九代藩主の容保は、美濃国高須藩主(岐阜県)の六男として生まれます。八代藩主容敬に男子のなかったことから、12歳で養嗣子に迎えられ、嘉永5年(1852)18歳で藩主になりました。当時の会津藩は、田中玄宰による実学尊重の精神が藩祖正之以来の保守的な学風へもどりつつあり、正之の残した家訓の第1条「大君の義 一心大切に忠勤に存ずべく」とある徳川本家への忠誠心は不可侵のものになりました。

■京都守護職

 そうした中にあって、幕府は尊王攘夷派が横行する京都の状況に手を焼き、雄藩をもって京都守護職を設けることにしました。いくつかの藩が候補にあげられましたが、最後に白羽の矢は会津藩へ向けられました。藩内においても家老西郷頼母はじめ自重論が根強かったのですが、家訓をたてに受諾を迫る幕老に容保は従わざるをえませんでした。
 そして、文久2年(1862)容保は、1千名の精鋭を引き連れて京都へ向かい、黒谷の金戒光明寺に本陣を構えました。容保の実弟で、桑名松平家11万石(三重県)を継いだ定敬が京都所司代を命じられて、会桑両藩による京都の治安維持がはじまり、容保兄弟は尊王攘夷派の恨みを一身に受けることになりました。
 そのような中、容保は生来の謹直さから孝明天皇の信任をうけました。しかし、容保の公武合体の夢も慶応2年(1866)頼みの孝明天皇が急逝すると一転して悲劇の道を進むことになります。



■戊辰戦争

 今日、会津の名を全国に知らしめている大きな要因に戊辰戦争があります。武士が互いに殺し合い、罪もない老若男女が死骸を積み重ね、町家は火に焼かれ、田畑は兵馬に踏みにじられた幕末の内戦です。

■徳川幕府の終焉
 慶応3年(1867)11月、薩長両藩を中心とする倒幕派が攻勢に転じると、十五代将軍慶喜は大政奉還し、徳川家を中心とする天皇親政を目指しますが、倒幕派の策に敗れると一転して大坂より兵を進め、慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見で戊辰戦争は火蓋を切りました。戦意にあふれ、兵装を近代化した新政府軍の前に幕軍は大敗し、ついに江戸開城によって徳川三百年の歴史は終わりを告げました。

■会津の悲劇

 しかし、弟定敬ともども朝敵の筆頭にあげられた容保にとって、これからが悪夢のはじまりでした。主戦派に後押しされた容保は、恭順を主張する家老神保修理を切腹させ、軍制を改革して朱雀・青龍・玄武・白虎の諸隊を設け、洋式銃を買い集めるなど、来るべき新政府軍との戦いに備えはじめました。こうして5月には奥羽越列藩同盟が成立して、新潟から東北にかけての諸藩は、新政府軍との武力衝突をはじめたのです。
 初戦では新政府軍の兵力不足もあって列藩同盟は善戦しますが、越後長岡城(新潟県)や二本松城の落城のころから戦雲は急速に傾き、8月20日には新政府軍に会津攻撃の命令が下りました。福島へ通じる街道の母成峠から会津に侵入してきた新政府軍は、白虎隊などの予備兵の抵抗を蹴散らし、8月23日には鶴ヶ城を囲みました。この時、白虎隊士中二番隊や西郷頼母一族の自刃など、幾多の悲劇が生まれたのです。

■一ヶ月に及ぶ籠城
 孤立無援の中で容保は籠城しましたが、蒲生氏郷が築き、加藤明成が改修した鶴ヶ城はさすがに名城、1ヶ月にもおよぶ戦闘に耐え続けました。しかし、援軍も見込まれない中、昼夜に及ぶ砲撃にさらされ、ついに9月22日、容保は降伏を決意します。この日に会津秋まつりが開催されるのは、戊辰戦争に倒れた先人の霊を祀るためでもあります。

■戦争が終わって…
藩主容保以下の将兵は、猪苗代や塩川などに謹慎して敗戦処理を待ちました。その結果、家老萱野権兵衛の切腹によって会津松平家の断絶はまぬがれ、容保の子容大に斗南藩3万石(青森県東北部)が与えられました。北辺の酷烈な地を目指し、山川浩をはじめとする沢山の会津藩士とその家族が会津を去りました。

『明日よりは何処かの誰か眺むらむ 馴れにし大城に残る月影』
(城を去るにあたって山本八重子が白壁に刻んだ一首。詠人は、同志社創立者新島譲の夫人となった)


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