8月22日の朝です。「士中白虎隊2番中隊は殿様にしたがって、出陣するから、正午まで、みんな用意して城に集まれ」という、回し文が回ってきました。これを読んだ少年たちは たがいに手をとりあって喜びました。
この絵の飯沼貞吉少年の家では父も兄も戦場に出かけて、家には母と妹と弟だけが残っていました。母は、貞吉の出陣の用意ができると、父にかわって 厳かに「お殿様のために お前の命を捧げる時がやってきました。日頃の父上の教えをよく守って、いくさの場にのぞんだらけっして卑怯な事をしてはなりません。」と戒め、一首の歌を短冊に書いてくれました。
あずさゆみ むかふ 矢さきはしげくとも ひきなかへしそ もののふの道
ああ、人の子の母親として、誰が自分のこどもの死ぬことを、願う者がありましょう。しかし、当時は、武士道の掟として、このように悲しいまでに厳しい、教育がどの家族でも行われていたのです。
母成峠を越えた新政府軍は、いっせいに会津領内へなだれ込んできました。8月22日には、早くも猪苗代城を陥れ、息もつかず追いうちして来ましたので、会津軍はまったく陣を立て直す暇もありませんでした。
母成峠の守りが敗られたというしらせが、鶴ヶ城に入ったのがは21日の早朝でした。老人と少年たちしか残っていない城中の驚きは大変なものでした。しかし、すぐにそれに対する、てはずが決められ、老いも若きも、みな必死の守りにつくことになりました。
第1には猪苗代湖から流れるでる日橋川にかけられた十六橋を落として新政府軍をくいとめなければなりません。朝早くから橋を壊しに かかりましたが、ここは石橋でしっかり作られていたため 壊し終わらないうちに新政府軍は、東岸の戸の口集落までせまってきました。 日橋川をはさんでの会津軍必死の防戦もむなしく、ついに守りは破られて 夕やみの中を、戸の口原に退かねばなりませんでした。
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