年代(年号) |
事 柄 |
1643
(寛永20年) |
加藤氏が四十万石の封士を召し上げられると、保科正之が最上(山形)から転封となり、会津四郡23万石を与えられるとともに南山五千五百石余の幕府領を預かることとなりました。 |
1651
(慶安四年) |
将軍家光の臨終にあたり、その子家綱が幼かったので正之を後見としました。 |
1668
(寛文八年) |
正之は家訓十五条を定め、子孫への遺訓としました。この後、会津藩の政治の大綱になりました。 |
1696
(元禄九年) |
三代正容は十二月九日将軍の命令により、松平の姓と葵の紋を用いることになりました。 |
1787
(天明七年) |
二月に家老田中玄宰が藩政改革についての建議書を差し出しました。五代容頌は家臣に計ってこれを許したので、藩政の一大改革が行われるようになりました。 |
1808
(文化五年) |
この年幕府の命令によって兵を出し、蝦夷地を守りました。八月に玄宰がなくなり、遺言によって小田山の頂上に葬りました。 |
以降、幕末へ続きます |