会津若松の基礎を作った、文武両道に優れた名将
蒲生氏郷は、戦国の英雄・織田信長の寵臣で、信長の娘・冬姫と結婚しています。現在の会津若松の基礎は彼によって築かれました。黒川を会津と改めたのも蒲生氏郷です。文武両道に優れた人材でしたが、わずか40才でこの世を去りました。
年代(年号)
事 柄
1590
(天正18年)
豊臣秀吉の命により伊達政宗が陸奥国岩手山城(宮城県)へと移りました。会津、仙道十一郡が蒲生氏郷に与えられました。
1592
(文禄元年)
氏郷は秀吉にしたがって九州名護屋にくだり、朝鮮の役へ加わりました。
その間、六月から黒川城の改築を中心に城下町の建設がはじまりました。
1593
(文禄2年)
六月には七層の天守閣をもつ城郭の改築とともに、城下町の建設がほぼ完成し、はじめて家臣団の住む郭内ができ、庶民の住む郭外とは土居と外堀で分け、黒川を若松と改め、城の名を鶴ヶ城と命名しました。
1595
(文禄4年)
二月七日、氏郷が亡くなりました。享年四十歳です。京都の大徳寺昌林院に葬り、遺髪が若松の興徳寺に葬られました。氏郷のあとは、子の秀行が継ぎました。
1598
(慶長3年)
秀行が宇都宮に十八万石で転封。
■蒲生氏郷の生い立ち
政宗のあと、会津は伊勢松坂(三重県)の領主蒲生氏郷(がもううじさと)に与えられました。
氏郷は弘治2年(1556)、近江国日野城主(滋賀県)蒲生賢秀の子として生まれました。幼くして織田信長の人質となりましたが、その非凡な才能を信長に愛され、娘冬姫と結婚することとなりました。1代の英雄信長が若き氏郷に与えた影響は大きなものであったと思われます。
その後、秀吉のもとで小牧・長久手の合戦に活躍し、伊勢国松ヶ島(後の松坂)に12万石を与えられ、九州征伐・小田原征伐の功のよって会津40万石、後に92万石の領主となりました。
■文武両道
氏郷は鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って敵に突入する勇猛な武将として知られますが、その反面、和歌や宗教に理解のある、安土桃山文化を代表する文化人としても有名です。とりわけ茶道では利休七哲の筆頭にあげられたほどです。利休の曾孫江岑宗左の残した、「江岑夏書」(こうしんげがき)では、利休が秀吉に切腹を命じられたとき、自分が京都にいたならば師の利休を死なせるようなことはしなかったものをと、氏郷が口惜しがったことが書かかれてあり、茶の湯を通じた利休と氏郷の交流には興味深いものがあります。
■短い生涯
このように、文武両道に秀でた氏郷は36歳の若さで会津の領主となり、仙台の伊達政宗や山形の最上義光などを抑える要(かなめ)の役割を果たしましたが、文禄4年(1595)2月7日、40歳の若さでこの世を去りました。当時の名医、曲直瀬道三によれば、死因は下毒症とされていますが、あまりにも若すぎる死にいくつかの謀殺説も伝えられています。辞世は「限りあれば ふかねど花は散るものを心みじかき春の山風」とあり、墓は京都の大徳寺と会津若松市内の興徳寺に残されています。氏郷の死後、その子、鶴千代(のちの秀行)が13歳の若さで跡を継ぎますが、慶長3年(1598)幼弱で家中を統率できないという理由で、下野国宇都宮18万石(栃木)に減封されました。氏郷未亡人である冬姫が秀吉の意に従わなかったからとも伝えられています。
■産業おこしと町わり
信長は安土城を築き、楽市楽座を設け、城下町を整えるなど、自由で豊かな桃山時代をおこしたことで有名ですが、その女婿でもある氏郷も会津に大きな足跡を残しました。
氏郷は会津に入ると鶴ヶ城の整備に着手しました。氏郷の郷里近江の国からたくさんの技術者を呼び寄せ、現在も残されている野面積み(のづらづみ)の天守台を築き、七層の天守閣を建てたと伝えられています。
また、葦名時代の手狭な城下を一新し、郭内から神社やお寺を外に出して家臣の屋敷を連ね、車川を利用して外堀を築き、郭外には庶民を住まわせ、その要所に神社やお寺を配置するなど今日の会津若松市街地の骨格を定めました。そして郷里である近江国蒲生郷の「若松の森」にちなんで黒川を若松と改めました。
さらに商工業の発展を奨励するため、いくつかの有意義な施策を講じました。その一つは市を設けて生産物の交易を図ったことです。馬場町は「1」と「8」、本郷町は「2」と「7」、三日町は「3」、柱林寺町は「4」と「9」、大町は「5」と「10」、六日町は「6」と、日を定めて市を設けました。次に近江国から木地師と塗師を招き、会津の地場産業として今も大きな役割を占めている会津漆器の基礎を作りました。また酒造や金工など、上方の優れた技術を会津へ移入することで後世に伝えられる産業の振興を図りました。
■郷土の恩人・蒲生氏郷
このような、氏郷の功績は、今も私たちの生活に大きな影響を残しています。大町の十日市は会津の正月を彩る一大イベントですし、夏のお日市はまちまちの風物詩として親しまれています。氏郷が近江国から移入した漆器と酒造は、歴史と自然に恵まれた郷土会津を代表する2大地場産業として全国に知られています。会津若松市民が今も郷土の恩人として氏郷を讃えていることも当然といえます。
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