白虎隊は、日新館の生徒だったので教育を司る学校奉行の監督のもとに属していました。
戦争がはじまると、学校はとざされたので、毎日生徒たちは三の丸の調練場ではげしい、訓練をつづけていました。
けれども、新政府軍が国境に迫ると聞いては、さすがに少年たちもじっとしていることができません。自分たちの生まれ育ったこの美しい会津の土地を戦火にあらされないように、自分たちの手で守りぬこうと少年たちはまごころこめた出陣の嘆願書を軍事奉行である家老の萱野権兵衛にさしだしてお願いをしました。
少年たちのまごころはとおりました。まもなく8月にはいると、白虎隊は学校奉行の手から軍事奉行の監督下にうつりました。こうして白虎隊は、いままでの後備えの部隊から 朱雀隊のように、いつでも戦いのできる部隊に属すことになったのです。
いくさは、日ましに激しくなり、8月になると、白河口、日光口、越後口、二本松口と会津の国境にはひしひしと、新政府軍がせまってきました。
二本松城を攻め落とした、新政府軍は8月20日、「仙台を攻める」と宣伝しながら いきなり、会津軍のいちばん 手薄な磐梯熱海から石筵を とおって母成峠(ぼなりとうげ)にかかる石筵口(いしむしろぐち)を3000人に近い兵力で せめてきました。
ここを守っていた会津の兵はわずかに、600~700名しか いませんでしたが「新政府軍を会津に一歩たりともいれまい」と 全力をつくして戦いました。
しかし、この母成峠は安達太良山の裾野で南北12キロにもわたる 広い高原ですから、この少ない兵力ではとても守りきれませんでした。
散々に新政府軍を苦しめながらも、しだいに数をましてくる優勢な敵軍に少しずつおされて、とうとう、このまもりも破られてしまいました。
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