会津の歴史Q&A
鶴ヶ城にはたくさんの質問がよせらせます
その中でよくあるものをまとめました。自由研究の資料などにどうぞ!
ふつう、お殿様は、天守閣のすぐ下にある、本丸御殿にすんでいました。
本丸のなかは今、何もありませんが明治7年に取り壊されるまで、図のようにお殿様やお姫様が住む大きな屋敷がありました。
お屋敷には「大広間(おおひろま)」「大書院(だいしょいん)」「御寝所(ごしんしょ)」などと よばれる部屋がいっぱいありました。
また、このほか、「御文庫」「御三階」と呼ばれる建物や復元移築(ふくげんいちく)されている、お茶室(麟閣)などもありました。

おおくは「ソメイヨシノ」ですが、八重桜(やえざくら)や長野県高遠町(ながのけん たかとうまち)から寄贈(きぞう)された、「コヒガンザクラ」なども綺麗な花を咲かせてくれます。
見頃は毎年4月中旬から2週間程度です。
また、鶴ヶ城のさくらは「全国さくらの名所百選(めいしょひゃくせん)の地」にも指定されています。

東京ドームの約6倍の広さです。
ただし、現在史跡に指定されているのは約230,000㎡ですので、江戸時代は現在よりもっと広かったようです。
※三の丸は現在では、県立博物館から市営プールの方までの一帯でした。

天守台(石垣だけ)の高さは11m
天守閣だけの高さは25.15m

江戸時代からあった天守閣は、幕末の戊辰戦争で傷んでしまったので、明治7年に取り壊されてしまいました。
現在の天守閣は昭和40年9月に復元されたものです。
鶴ヶ城は葦名直盛が1384年に建てた東黒川館がはじまりと言われています。 天守閣は江戸時代の1639年に加藤明成が建てた時に、今の形になりました。

鉄筋コンクリートでできており、天守閣全体を4本の柱だけで支えています。このため、天守閣の土台である石垣には、おもさがかかっていません。
もちろん、江戸時代の天守閣は木造でした。
一番多いときは、上杉景勝(うえすぎかげかつ)が会津のお殿様だったころで、このときは、とおく佐渡島(さどがしま)のほうまで、会津の領地(りょうち)でした。しかし、お殿様が かわるたびに、会津の領地もかわり、江戸時代がおわるころは、23万石でした。
16歳から17歳といっても、当時は「かぞえとし」だったため、今でいえば、15歳から16歳ということになります。(中学校3年生~高校1年生)
この少年たちが故郷である「会津」をまもるため若い命をちらしていったのです。
参考 白虎隊のお話
特に、副隊長の土方歳三は七日町の清水屋という旅館にとまり、傷を癒していますし、3番隊長の斎藤一も市内神指町の如来堂という所で戦っています。また、市内の天寧寺(てんねいじ)には、隊長の近藤勇の墓もあります。
麟閣は、本丸内にある、お茶室です。
御薬園は会津藩主のお庭・別荘です
むかし、江戸時代に薬用人参を試植し、広く奨励したことから、このように薬の字がはいった、名前で呼ばれるようになりました。
どちらも間違いではありません。鶴ヶ城の場合は昭和9年に、国の史跡(しせき)として指定された時には「若松市」であったため「若松城跡」で指定されました。
では、なぜ、鶴ヶ城とよぶのでしょうか?
それは、今から約400年前に会津のお殿様だった蒲生氏郷公(がもううじさとこう)が会津のお城を「鶴ヶ城(つるがじょう)」と名づけたともいわれています。
なぜ、鶴ヶ城となづけたのかは、いろいろな説がありますが、それからずっと「鶴ヶ城」と呼ばれ親しまれています。
このように、『鶴ヶ城』ひとつをとっても、いろいろな呼び方があります。