再・蒲生氏時代
江戸時代
織田と徳川の血をひく名族の再登場
蒲生氏郷の子・秀行は徳川の娘を妻とし、関ヶ原の戦いでは徳川に従い、宇都宮城主として上杉の南下に備えました。その功績で再び会津に60万石で封じられました。蒲生秀行は町方の振興に努めますが、大地震や干ばつに悩まされ、若くして亡くなります。
その後、蒲生家は家中が乱れや、家長の若死が続き、わずか4代で途絶えます。
- 1601(慶長6年)
- 9月に上杉景勝は米沢に30万石で転封、蒲生秀行が再び会津に60万石で転封してきました。
- 1611(慶長16年)
- 8月に会津地方で大地震があり、人家、社寺の倒れたものが多く、また各地に山崩れがあり、死者3700人といわれています。
- 1613(慶長17年)
-
5月に蒲生秀行が心労のため亡くなりました。
6月に蒲生秀行の子忠郷がわずか10才で蒲生の三代を継ぎました。 - 1627(寛永4年)
- 1月に蒲生忠郷が亡くなりました。子がなかったので、弟忠知が四国の伊予松山に転じ、5月に松山から加藤嘉明が会津四郡、安積、岩瀬二郡40万石で若松に転封となりました。
加藤氏時代
江戸時代
城の改修と領内の整備・現在の鶴ヶ城が誕生
加藤嘉明は若くして豊臣秀吉に仕え、勇名をはせた典型的な戦国武将です。秀吉の死後徳川についたため、後に伊予松山(愛媛)に20万石を与えられました。そして会津を治めていた蒲生氏が途絶えたことから、40万石で伊予松山(愛媛)から会津に転封。その後、城の改修と領内の整備を進め、鶴ヶ城は現在の姿になりました。
しかし、その子・加藤明成が重臣と対立したのをきっかけに、会津40万石は幕府に召し上げられることになります。
- 1627(寛永4年)
- 1月に蒲生忠郷が亡くなりました。子がなかったので、弟忠知が四国の伊予松山に転じ、5月に松山から加藤嘉明が会津四郡、安積、岩瀬二郡40万石で若松に転封してきました。
- 1631(寛永8年)
- 9月に加藤嘉明が亡くなり、嫡子明成があとを継ぎました。
- 1632(寛永9年)
- 明成はこの年から、滝沢峠の修理をはじめ、道に石を敷き、主要街道として寛永十一年に完成させました。
- 1639(寛永16年)
-
5層の天守閣を建て、西出丸、北出丸を増築しました。(現在の鶴ヶ城の姿が整う)
重臣・堀主水兄弟が明成に反抗する。 - 1643(寛永20年)
- 堀主水兄弟の件が元で、5月に明成は40万石の封土を召し上げられました。
保科・松平時代
江戸時代
将軍秀忠の庶子・保科正之
保科正之は2代目将軍・徳川秀忠の庶子にあたります。しかし、その誕生は秘密とされ、信濃の保科正光の養子として育ちました。やがて3代将軍・家光に実弟として認められ、会津を領地として与えられます。
その後、保科正之の子・正容が3代目を継ぐと、幕府から松平姓と葵の紋を与えられ、正式に徳川の御家門として会津は組み入れられる事になります。こうして、会津の松平藩政は9代続きました。
- 1643(寛永20年)
- 加藤氏が40万石の封士を召し上げられると、保科正之が最上(山形)から転封となり、会津四郡23万石を与えられるとともに南山5500石余の幕府領を預かることとなりました。
- 1651(慶安四年)
- 将軍家光の臨終にあたり、その子家綱が幼かったので正之を後見としました。
- 1668(寛文八年)
- 正之は家訓の15か条を定め、子孫への遺訓としました。この後、会津藩の政治の大綱になりました。
- 1696(元禄九年)
- 3代正容は12月9日将軍の命令により、松平の姓と葵の紋を用いることになりました。
- 1787(天明七年)
- 2月に家老田中玄宰が藩政改革についての建議書を差し出しました。5代容頌は家臣に計ってこれを許したので、藩政の一大改革が行われるようになりました。
- 1808(文化五年)
- この年幕府の命令によって兵を出し、蝦夷地を守りました。8月に玄宰がなくなり、遺言によって小田山の頂上に葬られました。
「家訓」と保科正之
保科正之は寛文8年(1668)4月11日、会津藩の「藩」の方針を決め、首席家老 田中正玄(たなかまさはる)を江戸屋敷に呼んでこれを授けました。これが「家訓」の15カ条です。 以来、会津藩ではこれを藩是(はんぜ)とし、ことあるときはこれをよりどころとしさまざまな決断をしました。会津藩の精神的な柱といっても良いでしょう。
保科正之と山崎闇斎が共同で作成したのではないかと考えられています。


「家訓」15か条
-
大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
もし二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず、面々決して従うべからず。 - 武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱るべからず。
- 兄をうやまい、弟を愛すべし。
- 婦人女子の言、一切聞くべからず。
- 主をおもんじ、法を畏るべし。
- 家中は風儀をはげむべし。
- 賄をおこない、媚を求むべからず。
- 面々、依怙贔屓すべからず。
- 士をえらぶには便辟便侫の者をとるべからず。
-
賞罰は家老のほか、これに参加すべからず。
もし位を出ずる者あらば、これを厳格にすべし。 - 近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。
-
政事は利害を持って道理をまぐるべからず。
評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。
思うところを蔵せず、もってこれを争うそうべし。
はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず。 - 法を犯すものは宥すべからず。
-
社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり。
歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず。 -
もし志をうしない、遊楽をこのみ、馳奢をいたし、土民をしてその所を失わしめば、
すなわち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表蟄居すべし。 -
右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
寛文8年戊申4月11日

保科正之が眠る土津神社
(はにつじんじゃ)
TEL 0242-62-2160
会津藩祖・保科正之を祀った神社です。正之が寛文12(1672)年12月に亡くなると、遺言通り神社が造営されました。創建当初の建物は戊辰戦争の時に焼失しましたが、明治13(1880)年に現在の社が建てられました。
会津藩校・日新館

藩の武家の男児たちは、10歳になると
この藩の学校『日新館』に入学する決まりになっていました
会津藩校日新館は文化元年(1804年)、5代藩主松平容頌(まつだいら かたのぶ)の時代に完成しました。
当時、藩の借金は40万両を超える額となっていました。このため、容頌は田中玄宰(たなか はるなか)を家老に登用し、藩の一大改革へのりだしました。その基本は、藩政の基盤が士農工商の振興にあり、それを成し遂げるためには 士=家臣団の教育と人材登用にあるとの考えにもとづくものでした。
藩校日新館の特徴
- 内部は孔子をまつった大成殿を中心として素読所(小学ともいった)、講釈所(大学ともいった)をはじめ、たくさんの校舎がならんでいた。
- 天文台、開版方(印刷所)、文庫(図書館)、水練場(プール)といった施設まで完備していた。
- 特に優秀な生徒は、この日新館をおえると、江戸(東京)や長崎にも藩の費用で留学することができました。