会津 鶴ヶ城 Tsurugajo Castle

白虎隊のお話・初めに

白虎隊は、今や日本中に知られています。これは、明治維新という大きな時代の流れの中で、ふるさと、会津を守るという、純粋な気持ちで戦場におもむいた、16、17歳の少年たちの悲劇が今に伝えられているものです。白虎隊が自刃した飯盛山のお墓には、今も訪れる人が絶えません。この小冊子により白虎隊士のふるさとに対する平和と幸福への願いと、その精神が、皆さんに理解されれば幸いです。
わかりやすく書いた『白虎隊』より 製作発行著作:会津若松観光物産協会

白虎隊のお話 目次

※お話の中の月日の表記は旧暦によるものです。

1. 会津の子供達と日新館

会津藩校 日新館
会津藩校 日新館

会津藩の男の子たちは、10歳になると日新館という藩の学校に入学する決まりになっていました。

また、これとは別に6歳から9歳までの幼い子供たちは、入学前から立派な生徒になろうとして、子供たちだけで集まりを作っていました。この集まりを「お話の什(じゅう)」または「あそびの什(じゅう)」といっていました。

まず、「会津武士の子供はこのようにしなければ、ならなぬ」という心がまえから、お互いに、約束をきめ子供たちの家を順番に会場として、そこで熱心に反省会をひらきました。そして、その約束ごとに背かないように努力したのです。

いくつかある、約束ごとの終わりに、「ならぬことは ならぬものです」という言葉がありますが、将来、立派な指導者となる武士としての自覚と責任がこうして子供の時から、しっかりとしつけられたのです。
「お話」が終わると「遊び」になって自由にのびのびと今の子供と同じように、鬼ごっこやかくれんぼをして遊びました。

会津藩校 日新館

日新館は寛政(かんせい)11年(1799)4月から工事が始まり、5年もの長い歳月を費やして享和3年(1803)に完成した立派な学校です。場所は鶴ヶ城の西側にありました。

内部は、孔子をまつった大成殿(だいせんでん)を中心として素読所(そどくじょ:小学ともいった)講釈所(こうしゃくじょ:大学ともいった)をはじめ、その他、たくさんの校舎がならび、また天文台、開版方(かいはんかた:印刷出版所)、文庫(ぶんこ:図書館)、水練場(すいれんじょう:プール)まであるという、全国でもまれにみる設備の整った学校でした。

特に優秀な生徒は、ここを終えると藩の費用で江戸や長崎へも留学できましたから、自分の努力によっては、いくらでも学問や技術をすすめていくことができました。

これらのことからも、会津藩が青少年たちの教育にどんなに熱心であったか、また、青少年の将来をどんなに大切に考えていたかがわかります。

2. 日新館での勉強

生徒たちが先生について、素読(そどく:漢文のよみかた)を教わっているところ

生徒たちが先生について、素読(そどく:漢文のよみかた)を教わっているところです。
日新館に入学すると、はじめに素読所にはいります。ここで6~7年ほど勉強をし、試験によってその上の講釈所にはいって勉強することになっていました。
ここの生徒は、「生徒の什」というグループをつくり毎日、学校から帰ってくると決まった場所にあつまって勉強のことや、心の修養になることなどを、話し合っては励みあっていました。そしてまた、小さい子供たちの集まりである「遊びの什」を親切に指導したりしていたのです。

こうして、会津武士としての優れた素質は生徒たちの自主的な態度の中から次第に養われていきました。
白虎隊の人々は素読所を終わって、次の講釈所に入学する年齢でしたが、不幸にも戊辰戦争がはじまったため、学校は閉ざされてしまい好きな勉強も出来ないままに終わってしまったのでした。

会津は昔から武道の盛んなところでした。稽古は師範と締まり方(しまりかた:監督する人)が指導にあたりました。稽古はたいへん厳しいものでしたが、生徒たちは一人もなまけるものがなく元気なかけ声を道場いっぱいにひびかせていました。

武道には剣道のほかにも色々ありましたが、学校の外でも先生の道場やその他の稽古場が沢山あって、生徒たちはそういう場所でも稽古をしていていました。当時、剣道の道場は22か所、弓道は7か所、槍術は4か所もありました。そのほか、柔道、馬術、居合、薙刀、砲術などを加えるとずいぶんな数になります。

こういう盛んな、修練によって会津藩の子供たちは文武両道を実践する、基礎を確立していったのです。

3. 戊辰戦争の始まり

慶応4年(1868)正月、朝廷から幕府を打つ命令がでて、新政府軍はぞくぞくと東に進みました。そして、4月にはついに将軍、徳川慶喜は江戸城を明け渡しました。
300年も続いた長い幕府政治は終わりをつげ、古いものは崩れさって、新しい時代へと世の中は大きく変わろうとしていました。

その後、悲惨な戦を避けようとする、会津藩をはじめ、東北各藩の連合の願いも聞き入れられず、やがて新政府軍は会津にむかって、四方から取り囲むようにして、大軍をすすめてきました。
会津が幕府方の大きな勢力を持つ藩だから、どうしても攻め滅ぼさなければならないというのです。

ついに、会津藩もこの新政府軍の侵入を防ぐため、決然と立ち上がることになりました。
風を巻き起こし、砂ぼこりをあげて、矢のように早馬が町の中を駆け抜けて城内に入ってゆきます。四方の国境に新政府軍が近づいたという知らせです。こうして、若松城下は戦争の不安につつまれ、戦いの準備に一層さわがしくなっていきました。

会津藩では、以前から天下の形勢によって戦争が起こることを考えていました。ですから、鳥羽伏見の戦いの反省から、慶応4年3月の軍制の改革にとりかかっていました。今までの古いやり方を新しいフランス式のものに直したのです。

それには、あくまで戦力に重きをおいて、次のように年齢によって組織を改めたばかりでなく、武器や弾薬の買い入れにも力をそそぎました。

1、玄武隊(げんぶたい):50歳以上
1、青龍隊(せいりゅうたい):49歳以下、36歳まで
1、朱雀隊(すざくたい):35歳以下、18歳まで
1、白虎隊(びゃっこたい):17歳以下15歳まで※のちに16歳まで
他に、幼少組:15歳、14歳)

このうち、もっとも強い朱雀隊を主力として第1線にくりだし、それに続く、青龍隊に国境をまもらせ、玄武隊、白虎隊、幼少隊は、その後備えにとっておく方針でした。
5月になりますと、攻めてくると新政府軍にたいして、どのように防いだらよいか、お城のなかでは毎日のように、評議(相談する会議)が重ねられました。けれども全部を合わせても15000~16000人しかいない、兵では思うようにはいきませんでした。

4. 激しくなる戦

白虎隊は、日新館の生徒だったので教育を司る学校奉行の監督のもとに属していました。
戦争が始まると、学校は閉ざされたので、毎日生徒たちは三の丸の調練場で激しい訓練を続けていました。

けれども、新政府軍が国境に迫ると聞いては、さすがに少年たちもじっとしていることができません。自分たちの生まれ育ったこの美しい会津の土地を戦火にあらされないように、自分たちの手で守り抜こうと、少年たちはまごころこめた出陣の嘆願書を軍事奉行である家老の萱野権兵衛に差し出してお願いをしました。
少年たちのまごころは通りました。まもなく8月にはいると、白虎隊は学校奉行の手から軍事奉行の監督下に移りました。こうして白虎隊は、いままでの後備えの部隊から朱雀隊のように、いつでも戦いのできる部隊に属すことになったのです。

戦は、日ましに激しくなり、8月になると、白河口、日光口、越後口、二本松口と会津の国境にはひしひしと、新政府軍がせまってきました。
二本松城を攻め落とした、新政府軍は8月20日「仙台を攻める」と宣伝しながら、いきなり、会津軍の一番手薄な磐梯熱海から石筵を通って、母成峠(ぼなりとうげ)にかかる石筵口(いしむしろぐち)を3000人に近い兵力で攻めてきました。

ここを守っていた会津の兵はわずかに、600~700名しかいませんでしたが「新政府軍を会津に一歩たりともいれまい」と、全力を尽くして戦いました。しかし、この母成峠は安達太良山の裾野で南北12キロにもわたる 広い高原ですから、この少ない兵力ではとても守りきれませんでした。

散々に新政府軍を苦しめながらも、次第に数を増してくる優勢な敵軍に少しずつ押されて、とうとう、このまもりも破られてしまいました。

5. 破られる国境

8月22日の朝です。
「士中白虎隊2番中隊は殿様にしたがって、出陣するから、正午まで、みんな用意して城に集まれ」という、回し文が回ってきました。これを読んだ少年たちは互いに手を取り合って喜びました。

飯沼貞吉少年の家では父も兄も戦場に出かけて、家には母と妹と弟だけが残っていました。母は、貞吉の出陣の用意ができると、父にかわって 厳かに「お殿様のために お前の命を捧げる時がやってきました。日頃の父上の教えをよく守って、いくさの場にのぞんだらけっして卑怯な事をしてはなりません。」と戒め、一首の歌を短冊に書いてくれました。

あずさゆみ むかふ 矢さきはしげくとも ひきなかへしそ もののふの道

ああ、人の子の母親として、誰が自分のこどもの死ぬことを、願う者がありましょう。しかし、当時は、武士道の掟として、このように悲しいまでに厳しい、教育がどの家族でも行われていたのです。

母成峠を越えた新政府軍は、一斉に会津領内へなだれ込んできました。8月22日には、早くも猪苗代城を陥れ、息もつかず追いうちして来ましたので、会津軍はまったく陣を立て直す暇もありませんでした。

母成峠の守りが敗られたという知らせが、鶴ヶ城に入ったのがは21日の早朝でした。老人と少年たちしか残っていない城中の驚きは大変なものでした。しかし、すぐにそれに対する、手はずが決められ、老いも若きも、みな必死の守りにつくことになりました。

第1には猪苗代湖から流れる出る日橋川にかけられた十六橋を落として新政府軍を食い止めなければなりません。朝早くから橋を壊しにかかりましたが、ここは石橋でしっかり作られていたため 壊し終わらないうちに新政府軍は、東岸の戸の口集落までせまってきました。日橋川をはさんでの会津軍必死の防戦もむなしく、ついに守りは破られて夕闇の中を、戸の口原に退かねばなりませんでした。

6. 白虎隊の出陣

白虎隊の少年たちは、8月22日の午後1時ごろ殿様にしたがって、城下町の北東にある滝沢本陣につきました。
やがて、先に戸の口に向かった一隊から本陣に、援けの兵をもとめる連絡がきました。本陣には白虎隊の少年たちのほかにもはや一兵も残っていませんでした。

こうして、いよいよ少年たちは戦場に出発することになりました。殿様に別れを告げた少年たちは、感激に頬をそめ、澄みきった瞳をかがやかせながら、喜び勇んで滝沢峠を登っていきました。朝から雨もようの空は、とうとう本降りとなり、風もでてきて遠慮なく少年たちの顔にふきつけます。ぬかるみに悩みながら、戸の口原の陣地についたのは、午後5時を過ぎていました。あたりは暗くなっていて、時おりはるか遠方から銃声が聞こえてきます。陣地ではさかんに食事の炊き出しをやっていました。さっそく少年たちはこの大きな握りめしをわけてもらいました。

この握りめしが少年たちにとって、最後の晩餐となったのです。

夜もふけ、連絡に行った隊長の帰りを待っていましたが俄かに大砲がとどろき、激しい銃声が聞こえてきました。すでに夜は明けかかっていました。風もやわらぎ雨も小降りとなりましたが、深い朝霧が立ち込めて、辺りは少しも見えません。しかしこのままじっとしてはいられませんでした。

班隊頭・原田克吉(はらだかつきち)の指揮のもとに、銃声をたよりに猪苗代街道をまっすぐ進んで、道の南にある小高い丘に陣をとりました。ここで、原田は敵の様子をさぐるために、少年たち7名をつれて大胆にも戸の口村にでかけました。
しばらくすると、流れる霧の間から猪苗代街道を会津城下へ進む人馬の姿が見えてきました。新政府軍です。少年たちは短い木の繁みに隠れて散開しました。唇を一文字にかみしめた白虎隊は銃の火ぶたを一斉にきりました。新政府軍もはげしく応戦してきます。
やがて次第に、数多い新政府軍の銃火におされてきました。前ばかりでなく左右からも弾丸がとんできます。傷ついて倒れるものもありました。
新政府軍は四方から取り囲んでしまおうとしているのです。

7. 白虎隊の悲劇

次第に迫ってくる危機を救うため、年かさの篠田少年は隊長にかわって悲痛な声をふりしぼって、退却の命令をくだしました。
少年たちは、負傷者をいたわりながら、広い湿地帯にはいると、いつの間にかお互いの連絡を失ってばらばらになっしまいました。それでも篠田少年のまわりには二十人ちかくの隊士が一団となって固まっていました。少年たちは崖をよじのぼり、谷間を下り、追われるようにして戦場からしりぞいていきました。

新政府軍をさけながら新堀の洞門をくぐりぬけ、やっとのことで飯盛山の中腹にある、厳島神社の境内までたどりつきました。いつか雨もやんで雲のきれまから、かすかな日の光がもれていました。

城の方からは盛んに砲声がきこえてきます。篠田少年はみんなが揃うのを待ってまた疲れた足をひきずりながら、新堀に沿って歩きました。しばらくいくと、飯盛山の中腹に松林があって、見晴しのきく場所を見つけたので少年たちは新堀を渡って、そこによじ登りました。

飯盛山から望む鶴ヶ城
飯盛山から望む鶴ヶ城

体験したことのない凄まじい戦闘と、敗走、睡眠不足と少年たちは疲れ切っていました。
そして、高台から見た鶴ヶ城は黒い煙につつまれ、五層の天守閣の白壁には赤い炎が燃えさかっているように見えました。
また、ほんど火の海となった城下からは、絶え間なく砲声と銃声がとどろいています。

少年たちは予想もしなかったこの光景に思わず息をのみました。命とたのむ鶴ヶ城も、もはや、落城の運命かと思うと全身の力が一度に抜けていってしまうような悲しさが、少年たちの胸に込み上げてきました。

「城を枕に討ち死にするつもりでここまできたが、もうお城へ入ることはできない。すべてはおわったのだ。」
一人がこういってがっくり首をたれました。
すると傷ついた一人がいいました。
「このままぐずぐずしていれば、敵の手にかかって後の世までも恥じをさらすようなことになるぞ」
「そうだ、最後まで会津の武士らしく、いさぎよく、みんなここで切腹しよう。」
こうして、少年たちは、遥かにお城をのぞむと、いずまいをただし一礼してから自刃しました。

少年たちの静に閉じたまぶたの内には、懐かしい父や母の姿が、また、可愛らしい妹や弟の顔が、そして楽しかった数々の思い出が、美しくうかんでいました。

白虎隊自刃図
白虎隊自刃図
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