茶室 麟閣
千家ゆかりのお茶室「麟閣」
天正19年(1591年)千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ、死を命じられました。それにより利休の茶道が絶えるのを惜しんだ、時の会津城主「蒲生氏郷」は、利休の子少庵(しょうあん)を会津にかくまい、徳川家康とともに秀吉に千家の再興を願いでたのです。この時に建てたのがこの「麟閣(りんかく)」と伝えられています。
その後、少庵は許され京都へ帰って千家を再興し、現在の茶道へと伝えられています。
戊辰戦争後、城下に移築され保存されていましたが、平成になって元の場所である鶴ヶ城内へ移築復元されました。
茶室を眺めながらお茶を楽しんだり、少庵の命日にちなんだ月例の茶会が開かれています。
茶室麟閣の歴史
豊臣秀吉の奥州仕置によって、天正18年(1590)蒲生氏郷が会津に入り、近世的支配を確立していきました。氏郷は織田信長の娘婿であり、文武両道に秀で、特に茶道では利休の弟子(利休七哲)の筆頭にあげられるほどでした。天正19年(1591)2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家断絶に危機に瀕した時に、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家再興を秀吉に働きかけました。その結果、文禄3年(1594)に少庵は許されて京都に帰り、その子宗旦(そうたん)に千家茶道が引き継がれました。そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。
かくまわれている間に建てられたと伝えられているのが「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城(若松城)内で大切に使用されてきました。
しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治のはじめに城内の建物が取り壊される際、茶人・森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しみ、明治5年(1872)5月、自宅へ移築し、大切に保管しました。会津若松市では平成2年9月12日、市制90年を記念して、この氏郷・少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所へ移築しました。
茶室麟閣の扁額
茶室麟閣には、麟閣の南側、表門上、脇門上の3ヶ所に、三千家の家元による扁額(へんがく)が掲げられており、全国的にも大変珍しいと言われています。
麟閣の正門上
平成7年に奉納。裏千家15代家元・鵬雲斎 千宗室氏による扁額
麟閣東側
平成2年に奉納。表千家14代家元而妙斎千宗左氏による扁額
脇門上
平成16年に奉納。武者小路千家14代家元・不徹斎千宗守氏による扁額
茶室麟閣では少庵を偲びながら
お抹茶もお愉しみいただけます
茶室麟閣のご利用案内
開園時間 | 8:30~17:00(入場締切り16:30) ※お抹茶のご注文は16:00まで |
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お問い合わせ | 0242-27-4005 |
定休日 | 無休 |
料金 |
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