これらは、いずれも「農民は、一生懸命農業に励みなさい」ということを歌ったものです。
当時の農民は、厳しい年貢をとられながらも、生きていくうえでの心がまえを諭し、そうしなければ農民は生きていけないことを、与次衛門はよく知っていました。
佐瀬家は代々村長として指導的役割を担っていました。当時の若松城下の神指町幕内は、度々の洪水におそわれたため、新しい村づくりの課題は、水との戦いでした。会津の厳しい自然条件のもとで稲作を工夫して、寒さに強い品種と、田植えの早期を中心とした、米作りを確立しました。与次右衛門は藩政に協力し、完成させた「会津農書」は、江戸時代の古農学書として、現代でも高く評価されています。(会津若松市立会津図書館蔵)
ごくありふれた分かり易い言葉を用いて善をすすめ、悪をこらしめることの意味を、子ども「いろは歌」で説いたと言われています。
藩公は、最後の「げにさうぢゃいな げにさうぢゃいな」の折り返しの言葉を付け加えたと伝えられています。
善龍寺の和尚。
貧しい農家に生まれたが、幼いころから賢く、周りの者や両親の勧めで仏門に入り、熱塩の示現寺で修行するなどし、僧侶となりました。農民たちの苦しさを見聞きしてきたことが、得明和尚の礎となり、少子化にならないように、人口増加政策を実際に実行した、さきがけとして評価されました。温かな慈しみと愛情で、子どもたちの教育や善龍寺再興に力を入れました。(絵・新編会津風土記・熱塩の示現寺:会津若松市立会津図書館蔵)
百合の花は夏草にまじって一緒に咲きますが、その百合の花も雑草として刈られてしまえばおしまいです。
知行四百五十石の会津藩士。江戸常詰の聞番(幕府間の連絡などを取り次ぐ役職)を務め、晩年は会津に帰っていました。
日新館では、和学所で藩士たちに和歌を教え、さらに、後の六代藩主・容住(かたおき)の師範も務めていました。『水月和歌集』など多くの書を出しており、門人には、会津藩の歌人としても知られる沢田名垂などがいます。(表紙・水月和歌集:会津若松市立会津図書館蔵)
辞世の句。
夫につくした女性。組付の夫がこれまでの不所業と殺人の疑いをもたれた為、切腹を仰せ付けられ、お家断絶となりました。事件後、叔父より、センを養女に貰い受け、婿をとって跡継ぎにとの申し出がありました。センは、夫の切腹で体を病んだ姑を介抱をしてあげたいと訴えましたが、聞き入れて貰えませんでした。その後、センは夫の忌日を持って、『忠臣は二国に仕えず、烈女は二庭をふまないものである』との遺言と辞世の句を残して自害しました。死後、保科正之に婦人の鑑として讃えられました。
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隣人との些細ないざこざの際に交わした歌。
娘子隊・中野竹子の母。夫・平内と三人の子供ともに会津藩上屋敷に住んでいました。隣家には旗本の剣術師範がおり、孝子が毎日子供のおむつや洗濯物を縁先に干しているのがよほど目障りであったのか、門人に『縁先に五色の旗のそのにほひお芋でもなし牛蒡でもなし』との狂歌を持たせてよこしました。そこで勝ち気な孝子は、この句をしたためて、門人に持たせたと言われています。(中野姉妹柳橋出陣の図:会津新選組記念館蔵)
眼が見えなくなってしまったけれども、さぞかし景色は変わっているのであろう。
六十才になって帰ってきたふるさとは。
二代将軍徳川秀忠の御落胤として生まれ、のち、会津23万石の藩祖となり、藩政の基礎を築きました。「家訓十五ヵ条」は代々の藩主に引き継がれ、会津藩の精神となり、幕末の会津藩の行動にも及びました。晩年は体調を崩し、眼病を理由に退職を申し出たところ、三代将軍・家綱は「かごに乗って登城せよ」と仰せられました。家綱にとって正之は、心の親のような存在だったようです。その後、正之は隠居を許され、23年ぶりで会津の地を踏みました。(掛軸・保科正之画像:会津若松市立会津図書館蔵)
※御落胤(ごらくいん) 身分の高い人が、正妻以外の身分の女性に生ませた子のことです。
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戊辰戦争では賊軍とされた浩が、西南戦争では官軍として参戦することになった悔しい気持ちを詠んだ歌です。
※官軍は朝廷側の軍、賊軍はそれに反抗する軍です。
会津藩家老。戊辰戦争では日光口副総監を務めました。新政府軍に包囲された鶴ヶ城に、通り囃子(はやし)を奏でながら会津の伝統芸能「彼岸獅子」の一行に扮して一兵も失うことなく入城したというエピソードを持つ知性の持ち主です。明治維新後は陸軍少将となり東京高等師範学校長などを兼務しています。(写真、表紙・さくら山集:会津若松市立会津図書館蔵)
二男山川浩が京都に旅立つことになったとき、はなむけに贈った歌。
本名は艶子、唐衣(からころも)は歌号です。山川尚江重固の妻となり12人の子供をもうけますが、成人したのはその中の7人(二葉・浩・三和・操・健次郎・常盤・捨松)でした。夫の重固は、捨松が生まれて2か月と経たない万延元年(1860)に亡くなり、この時に剃髪して勝聖院と号しました。子供の教育には非常に熱心で7人はそれぞれの道を大成しました。(写真・男爵山川先生伝:会津若松市立会津図書館蔵)
戦いに明け暮れていた時ふと抱いた静かな心情を詠んだものと思われています。
鳥羽伏見の戦いを経て戊辰戦争でも奮戦し、「鬼の官兵衛」と言われた猛将でもありましたが、人情に厚くその人柄で多くの部下たちに慕われた会津藩家老です。明治7年、生活に困っている旧藩士300人を率いて警視庁に入り、明治10年西南戦争では一等大警部として出征、熊本城をめざしました。その戦争の中で、壮列な戦死を遂げました。(写真・佐川官兵衛君父子之伝:会津若松市立会津図書館蔵)
若松俳壇の中心的人物であった荒川梅二、山口可応が門弟とともに菩提寺の正法寺に句碑を設立しました。
会津の俳人。家業は代々塗屋でありましたが、鍔(つば)製作を好み鍔師(つばし)となりました。諸国を歩き回り京都の俳人・桜井梅室(ばいしつ)に教えを乞い俳諧を極めるべく修行しました。若松俳壇の第一人者である荒川梅二に次いで有名な俳人で、多くの門弟がおり、妻の素琴(そきん)も俳人として名を残しています。(肖像・会津俳諧百家集:会津若松市立会津図書館蔵)
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戊辰戦争後、越後高田藩で謹慎生活をしていた時に詠んだ歌。
戊辰戦争後は、越後高田藩での謹慎生活を強いられ、解放後、会津へ帰って来るも、すぐに斗南へ移住することとなりました。斗南での生活は悲惨を極め、長い苦闘の末、再び会津へ戻ることが出来ました。この生活に耐え生き抜いた貴重な日々を、「明治日誌」として記録しました。
辞世の句
戊辰戦争の時、援軍を求める君命を受け、米沢藩へ向かいました。しかし、すでに米沢藩は西軍に降伏の意思を示しており、援軍要請に応えてはもらえませんでした。君命を果たせぬまま戻ったのでは面目が立たないとして、自らの命を絶ちました。
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辞世の句
喜代美が出陣する時に詠んだものです。
幼いころから文武に優れ、日新館ではしばしば褒賞を受けていました。ある日、下校途中に蛇を見つけた友人たちは蛇を殺そうとしましたが、喜代美はこれを「よせ、こんな蛇などを殺しても誰も我々の武芸の技量など、褒めてはくれない。殺したとて何の益もないぞ」と制止し、友人たちは喜代美の言葉に従ったといいます。戊辰戦争では、白虎隊として出陣し、飯盛山で自刃しました。
現在の福島県立博物館の北側に「桜が馬場」と呼ばれた場所を詠んだ歌です。
京都守護職となった藩主松平容保に先だって上洛し、藩の筆頭公用人として、京都の治安を守るために、日夜激務にたえました。温厚篤実な性格でしかも風雅を愛する人格者であったので在京各藩の留守居役の間でもすこぶる名声が高く人々から「先生」と尊称されていました。
兄への遠慮から、家を継ぐことはできないと父に弁解するのもせつないし、黙って去ってゆくのも心苦しい。そうした武士としての心の乱れを詠んだもの。
文武兼備の士です。父はその才能を愛し二男である義都に家を継がせたいと考えていました。そのことを知って兄の唯八は、自分から身を引いて若松を去ります。兄を差し置いて家をつぐことはでないと考えた義都も近村に隠れ住み医者を開業しました。
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楠正成父子が、桜井駅でわかれる場面を詠んだものです。
野矢常利の長男として生まれ、通称は、与八、涼斎・蓼円などと号します。和歌を沢田名垂に学ぶとともに、宝蔵院流高田派の槍術を志賀重方に学んでこれを極め、和歌師範と槍術師範を兼務しました。戊辰戦争では槍をとって出陣し、壮絶な戦死を遂げています。
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昭和初期に思い出の会津路を歩いた感慨を詠んだ歌です。戊辰戦争後、子どもながら柿を売った場所に歌碑があります。
戊辰戦争時、柴家の女性たちは幼い五郎を山荘に行かせ、その間に自刃しました。これは、母の配慮であったと言われています。戊辰戦争後、貧しいながらも学問で身をたてるため苦学を続け、後に、陸軍大将となりました。
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与曽一与曽二父子の物語をうたったもの。
今も強清水として清冽な水が湧き出ている強清水には、親子の伝説があります。
今から約780年前。働き者の父与曽一に対し、大怠け者の子与曽二。与曽二は、木こりの仕事を終えて帰る与曽一が、いつも清水を飲んで上機嫌で酒に酔っているように思えましたが、それはただの清水でした。その後、夢のお告げで真面目に働くことに改心した与曽二は、父に孝行し、この清水に御堂を建て、堂守として長くそこに住んだそうです。
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切腹にのぞんで詠んだ辞世の句。子を亡くす母への思いやりと、自らのやるせない心情が表れている。
会津藩家老神保内蔵助の長男。藩校日新館に学び、成績優秀でとくに詩文に優れていました。
藩主容保が京都守護職の時代、軍事奉行添役として側近を務めました。激動する政局にあって、多くの人々が抗戦論を掲げる中、不戦恭順論を説いた修理。鳥羽伏見の戦いによって敗退し、徳川慶喜らが江戸へ帰ってしまった際、抗戦派からの批判が集中し、弁明の機会も与えられぬまま、切腹を命じられました。
若松城内の小書院で行われた『花月』の題による「三十三番扇合」和歌会での句。
会津藩の武芸者であり歌人。
居合術の神夢想無楽流を極めたほか、剣道、居合、薙刀、忍術の道場に1000人余りの門弟子を抱えていました。和歌は、日新館和学師範の沢田名垂に師事し、各種の歌会に出て、和歌を残しています。晩年病のため失明しましたが、それでも自らの歌を短冊に書くことができたといいます。
自分の目標を持ち、それにむかってひたすらに努力をする。目標を達成する強い決心が表れている。
世界的に有名な細菌学者。
猪苗代町の貧しい農家に生まれました。1歳半の頃、囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負い、小学校卒業と同時に会津若松市会陽医院で左手を手術しましたが、完治することはありませんでした。その時に医者の素晴らしさを知り、医学への道を志した英世は、世界中の人々の命を救うこととなりました。
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風がなくても花の一生は限りがあるのでいつしか散ってしまう。春の山風はなぜ花を散らしてしまうのですか。辞世の句。
豊臣秀吉の命により会津を治め、会津の産業の基礎を築きました。また、武勇のみならず、文芸にも秀で、利休七哲の筆頭として数えられます。千利休が豊臣秀吉より切腹を命じられた時、その子少庵を匿いました。その時少庵が氏郷のために建てたのが茶室麟閣といわれています。氏郷は40歳の若さで京都で亡くなり、市内栄町の興徳寺には、遺髪がおさめられている墓があります。
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「あいづね」とは「磐梯山」を表している。辞世の句。
幕末の会津藩の家老。頼母は代々の通称で、名は近悳(ちかのり)といいます。京都守護職就任には最後まで反対しましたが、戊辰戦争勃発後は家老職に復帰して白河口総督を務めました。戊辰戦争後は日光東照宮神職を経て、晩年会津に戻り、74歳で亡くなりました。その墓は市内門田町北青木の善龍寺にあり、妻の千恵子と一緒に眠っています。
江戸時代の会津藩の国学者・歌人です。小さいころより優れた和歌をよみ、父母は早くから才能に気が付いていました。日新館和学師範の安部井武氏(あべいたけうじ)に師事し、のち京都に赴いて和歌を学びました。日新館の和学師範に登用され、藩士の教育に当たりました。 市内門田町北青木の会津藩共同墓地大窪山墓地には碑が建てられています。
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「遥けく青し」は実景でその中には距離のほかに、遥かな時間も含んでいる。夏から秋にかけ美しい花をつける凌霄花(ノウゼンカズラ)。鮮やかな色と夕べに落花する花は白虎隊に通じるものがあるようである。
東京都出身の俳人で、祖父岩崎鎌蔵は戊辰戦争の時、江戸火消の一団を引き連れて江戸から容保の後を追って鶴ヶ城の籠城戦に加わりました。悌二郎は再建された天守閣や荒城の月の碑を見つめて祖父の無念の情を噛みしめていたといわれています。悌二郎の希望により、会津の地に句碑が建てられました。
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戊辰戦争当時自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し、慰霊祭で詠んだ歌。
江戸時代末期、京都守護職として京都の治安回復に努めたことにより、時の孝明天皇から厚い信任を得ていました。その後も幕府のために働き、会津戦争では1ヶ月の籠城戦の後、降伏しました。亡くなるまで、守護職時代に孝明天皇から賜った御宸翰を肌身離さず所持していたといわれます。
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昭和11年10月に御薬園を訪れた時に詠んだ歌。
季節は秋、蓮の花が咲き終わり葉だけが残る静かな情景を歌に残した。
情熱的な作品と評される歌集「みだれ髪」の刊行や、女性の自立論を展開した与謝野晶子。明治44年と昭和11年に御薬園を訪れています。御薬園の歌碑は、会津地方の文化の啓発と青少年の文学レベルの向上に役立てるため与謝野家に許可を願い出て建立されたものです。
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