Aizu Tea Stories
会津の茶の湯文化の先駆け
利休七哲の筆頭
会津領主「蒲生氏郷」
蒲生氏郷(がもううじさと)
蒲生氏郷は、豊臣秀吉の命により
天正一八(一五九〇)年に会津領主となり、
町の発展の基盤を築きました。
氏郷は文武に優れ、千利休の弟子として茶道に親しみ
利休七哲の筆頭に挙げられるほどの茶人でした。
現代まで、会津の茶の湯文化に
大きな影響を与えた名将として語り継がれています。
会津若松と
「茶道」のルーツ
日本に茶の文化が広まったのは、鎌倉時代のことです。 中国に留学した禅僧・栄西が抹茶の飲み方を日本へもたらし、 より多くの人がお茶にふれたことで、茶道が広まる基盤ができました。
その後、侘び茶の祖とも言われる「村田珠光」(1422~1502)は、唐物(中国製)の高級茶道具だけで行われていた喫茶界に、信楽、伊賀など 国産の素朴な陶器を取り入れ、奥深い趣を感じさせる、静かで落ち着いた幽玄閑寂の境地を求める侘び茶を説きました。珠光の詫び茶思想は、京や堺の富裕な商人衆に広まり、武野紹鴎(1502~1555)が侘び茶の普及を加速させました。
堺の商人であった「千利休」(1522~1591)は、師・紹鴎の下で侘び茶を学び、60歳を超えた晩年には「無駄なものを一切省いた茶室」など、侘び茶を独自の形で発展させ、また「茶道具と作法の一体化」を図ることで侘び茶を「茶道」に昇華させました。
織田信長、豊臣秀吉など、利休は時の権力者の茶道の師匠として目覚ましい活躍をしましたが、その後、豊臣秀吉の逆鱗に触れて切腹を命じられ、無念の生涯を閉じます。
千家の茶道は、断絶の危機に瀕します。
その危機に動いた一人が会津領主・蒲生氏郷でした。
蒲生氏郷と千利休の関わり
ー茶人としての氏郷
茶道の基礎を確立した「茶聖」千利休(1522~1591)。天下人の織田信長や豊臣秀吉の茶頭としても仕えます。
今井宗久、津田宗及とともに「茶湯の天下三宗匠」と称せられ、自身が大成させた「侘び茶」の精神を世に広めるために、非常に多くの弟子を取りました。その中でも特に優れた弟子が「利休七哲」と呼ばれ、氏郷はその筆頭格に挙げられていました。
千利休は蒲生氏郷について、「文武二道の御大将にて、日本においてひとり、ふたりの御大名」と表現。氏郷は千利休に大きな影響を受け、茶道の所作はもちろん、その筆跡までも千利休に似ていたと言われています。
茶道の基礎を確立した「茶聖」
千利休
千家の血筋を救った
蒲生氏郷
千利休は織田信長や豊臣秀吉の茶頭として仕えますが、のちに秀吉の怒りにふれ、1591年(天正19年)千利休は秀吉に切腹を命じられ、無念の生涯を閉じます。その時、会津領主だった蒲生氏郷は、千家のお家断絶で茶道が絶えるのを惜しみ、利休の子・少庵(1546~1614)を会津にかくまい、徳川家康とともに千家の復興を秀吉に働きかけました。
氏郷は、その後も徳川家康と協力し、千家の再興に尽力します。1594年(文禄3年)ついに少庵は豊臣秀吉から京都への上洛が許され、千家の茶道の立て直しに着手することができたのです。
千家の茶の湯は、少庵の子「千宗旦」(せんのそうたん)に引き継がれ、宗旦の次男・宗守が 「武者小路千家」を、三男・宗左が「表千家」を、四男・宗室が「裏千家」を作り、三千家として現在に引き継がれています。
つまり、蒲生氏郷がいなければ、千家の茶の湯が伝承されることもなかったと言っても過言ではありません。
氏郷の尽力により、千家の血筋と茶道の伝統は守られ、今日までその文化が受け継がれています。
会津若松に受け継がれる
茶道文化
鶴ヶ城本丸の南東隅にある茶室麟閣は、幕末まで建っていた場所に復元されました。床柱には少庵が自ら削ったといわれる伝承があり、建物は福島県の重要文化財に指定されています。
茶道具と会津漆器
蒲生氏郷が産業として奨励したことが、その始まりだといわれていわれている会津漆器。茶の湯の発展と共に会津漆器も発展し、氏郷の時代から今日まで多くの職人によって受け継がれてきました。茶道具としての漆器、茶室で使用される重要なアイテムであり、会津漆器の美しさと実用性が茶の湯文化をさらに豊かにしています。
現代の茶道文化
会津若松では茶道の伝統が受け継がれています。地元の茶道教室や茶会があり、観光でも茶道を体験することができます。また、茶道イベントや展示会が行われ、さらに抹茶グルメを味わえるお店も多くあります。
会津若松と茶の湯の関係は、歴史的な背景に根ざしたものであり、今もなおその文化は受け継がれ、発展を続けています。